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藤坂ガルシア千鶴「ディエゴを探して」を読んで

日本はアルゼンチンサッカーについて知らなすぎると思う。

カタールの地で、マラドーナのチームと言われた86年以来の優勝を達成し、街中に人が繰り出す姿がSNSに流れるたび、季節も違う日本では、それがまるで異世界の出来事のように感じられる。

アルゼンチンが優勝が決まった後、とあるスペインのジャーナリストが「代表でこれだけ国全体が熱狂できるアルゼンチンという国が羨ましい」と言っていたのが印象的だった。それは代表熱が低いスペインと対比の上で、ということなのだが、スペインもサッカー熱は相当だ。その彼らが羨むレベルの熱量がそこにはあるのである。

偉そうに書いてきたが、かく言う私も、マラドーナについては「にわか」である。

リアルタイムはおろか、1986年大会もすべての試合を見たわけではない。

一応スペインのサッカーに携わっているので、バルセロナ時代のマラドーナの試合は何試合か見たことがある。今では考えられないレベルで荒いタックルを浴びている。

ゴイコエチェアが彼の足をへし折ったことは有名だが、クラシコでのホセ・アントニオ・カマーチョのタックルも相当なものだった。

また、晩年のセビージャ時代のドキュメンタリーも見たことがある。そこでは既にスター然とした、おそらくキャリア晩年のやや太めのマラドーナが、当時は若手のシメオネを弟分かのように面倒を見る姿が印象的だった。

私のマラドーナのイメージは、「昭和のスター」である。

きっぷが良くて豪快。仕事も遊びも真剣に、めちゃくちゃにやるタイプ。皆が手にスマートフォンと言う名のカメラを持ち、その場でSNSに上げることが出来なかった時代の話である。破茶滅茶もその場にいた人の記憶に留められ、そしてまあ、大抵のことは見て見ぬ振りをされる。

それが、愛すべきキャラクターであればなおさら。

そんな時代の話なので、著者の藤坂さんがこの本を記すに際し、当たった文献の量、アルゼンチンに移住されてから築かれたコネクションから、タイトルにあるように「ディエゴを探す」作業は膨大で、気が遠くなるような途方もないことのように感じられる。

マラドーナはキャリアの多くをイタリアとスペインで過ごしているし、そのうえ、マラドーナの場合は、きっと言えないようなこともたくさんしているだろうから、なおさら困難である。

一方で、だからこそ、プレー以外の神話、伝承の存在として人々の心に刻まれているのだと思う。

彼がSNSをやっていなくてよかった。きっとがっかりしただろうから。

そんな神話の存在なので、正直に言って彼の人となりの全体像のようなものを把握することは難しい。

この本は、藤坂さんが、「ディエゴ」のアルゼンチン時代の若い頃のエピソードを紹介すると共に、マラドーナを良く知る人への丁寧な取材から、彼の人となりに迫る。

手に取ると一見、伝記のようなものを想像するのだが、その内容、手法はどこかエッセイっぽくもあり、そしてエピローグも記されているとおり、アルゼンチン時代のものに絞っているところが本書の特徴だ。

アルゼンチンサッカーに精通し、マラドーナを追いかけアルゼンチンに移住、長くお住まいになられている藤坂さんによりエピソードが収集、キュレーションされているという時点で、アルゼンチン人のマラドーナ観に、日本語で私達が触れられるものの中で一番近く迫れるということは間違いないだろう。

特に、マラドーナの自伝の著者のダニエル・アルクッチ氏の言葉の数々は、この本のハイライトであるように思う。

この本で言うところの「ディエゴ」ではない側面、欧州に行った後の「マラドーナ」の部分は、私はすごく知りたいが、知らないほうがいいことのほうが多いのかもしれない。それがある意味で「アルゼンチンでのマラドーナ」、すなわち「ディエゴ」のほうのイメージを醸成しているのかもしれない、とも思う。

こうした藤坂さんのライフワークをもってしても、彼を知るにはエピソード(とおそらくちゃんと残っている資料)が足りなすぎ、相変わらず「ディエゴ」も「マラドーナ」もなかなか神話の世界から降りてきてくれないのだが、実際に彼を知る人に取材を重ね、そうした人たちから出た言葉は、彼を天上界から引きずり下ろすものとして、現在日本でベストのものであるように思う。

何より、アルゼンチンサッカーを私も含め知らなすぎるので、アルゼンチンでマラドーナがどういう扱いなのか、その片鱗を知る必要がある。

その空気感にふれることが出来る本なのは間違いない。そして、YouTubeで"Maradona"と検索して、彼に思いを馳せる。

リアルタイムでプレーを見ていない世代には、せいぜいそれしか出来ない。

けれども、それをやるには、今はいいタイミングなのではと思う。