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『ルカ・モドリッチ自伝 マイゲーム』を読んで

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本書は、2019年11月4日にクロアチアで原版が出版され、スペインでは2020年6月11日に、「Mi partido. La autobiografía de Luka Modrić」として出版されている。

したがって、日本でこの本を手にとった方はスペインのファンとほぼ同じタイミングで触れている。ちなみに英語版は、2020年5月20日から8月20日に発売が延期となったので、まだ発売されていない。

つまり、世界の大多数の英語圏のサッカーファンよりも、日本のファンのほうが早くこの内容に触れていることになる。

翻訳という作業は結局のところ、「この表現を日本語で一番近い言い回しをするとしたらこれかな」というものを、ひたすら模索する作業のように思える。日本語は言葉が幅が多いので、選択肢は無限だ。

クロアチア語のように、お世辞にも日本で親しみのある言語とはいえない言語を、これだけナチュラルに翻訳された長束さんのような方に、まず御礼と敬意をお伝えしたい。

特に自叙伝のようなパーソナルな内容ではニュアンスが重要だと思うが、長束さんの翻訳は、2012年からマドリーにやってきた彼を見続けてきた者として、違和感のない高いレベルであると断言できる。

一部、「レモンターダ(逆転劇)」といった、スペインサッカーに親しみのない者にはやや難易度の高い表現もそのまま含まれているが、内容の理解に支障が出るレベルではないし、むしろこの本を読むような方は、調べてほしい。 モドリッチがスペインでの生活で感じた表現を、インタビューでそのまま、彼のフィーリングで、レアル・マドリーの逆転劇をそう評したのであれば、スペイン語でそれをそのまま表現するのは自然に感じられるし、長束さんもそのニュアンスを大事にされたのだと思う。

さて、「この本を読む人は」と軽く書いたが、この本はどんな人が手にとるものなのだろう?

率直に言って、この本は少し変わったバランスのサッカー選手の自叙伝であると思う。

おそらく彼がクロアチアにとって国民的スターで、クロアチア語で出版された書物ということも関係しているのだろうが、この本はクラブレベルの活躍よりも、代表での成功が物語の中心に置かれているように感じられる。

この本の出版された2019年11月というタイミングから、2018年W杯のクロアチア躍進の中心人物となったこと、そしてバロンドール受賞という文脈を踏まえ出版された書籍であるというのは間違いない。クロアチアという国、人々にとっての代表への思い、位置付けも関係しているのかもしれない。

少なくとも、代表よりもレアル・マドリーやバルセロナのほうが人気のあるスペインの人からしたら、この本のバランスはやや違和感を感じるかもしれない。一方で、代表人気が高い日本では、逆にこの点はさほど違和感はないかもしれない。

また、サッカーファンが期待するような「アロンソとディ・マリアとのトライアングルは…といった、ピッチ上のタクティカルなトピックも、この手の本にしてはかなり少なめだと私は感じた。彼が現役選手だからというのも影響しているのかもしれない。

それゆえ、本来的にクロアチアの人々のように、彼のサッカー人生に親しみがあり、ある程度フォローしている人が、おそらく手に取る本なのだと思う。

自叙伝なのだから当たり前だと言われればそれまでなのだが、この本はどちらかといえば、そういう人がより楽しめる類の本だと、個人的には思う。

さて、この本を読み終えた人がおそらく最も強烈に感じるのは、彼のキャラクターについてではないだろうか。

表現が難しいが、物的な裕福さにさほど興味を示さず(彼のスパーズ時代に最初に買った車のチョイスを見てほしい)、彼の世界にあるのはサッカーと家族だけなのだ。

そして、彼の世界に関しては、包み隠さずかなりディテールまで語ってくれる。それがこの本の最も面白い部分だと思う。 妻のヴァーニャさんと「はじめてキスを交わした」日付まで入っているのは面食らう方も多いはずだ。

途中で、「馬鹿正直すぎた」と自らを評するいうフレーズが出てくるが、実際にそうなのだと思う。 この本は終始この調子なのだ。 「こんなところまで触れるの?」と、文脈を知っていれば思わずびっくりしてしまうような記述がいくつもある。

私が完璧に理解できるのはレアル・マドリーの文脈だけだが、それだけでも、多くの裏側が素直に語られる。ディナモ・ザグレブ、トッテナム・ホットスパー、ヴァトレニ(クロアチア代表)を追っている方々なら、それぞれの記述で同じように感じると思う。

事実、本書を通じて、レアル・マドリーのファンとして、彼の語るマドリーの事情に関する言葉選びには思わずニヤリとさせられた。

選手に支持されず解任の憂き目にあったされたベニテスを「教師風のチーム指導は、マドリーでは機能しないことは目に見えていたんだよ。」 と語り、モウリーニョを、「プリマドンナ」と評し、出場機会が限られた(モウ政権下、彼のマドリー1年目は完全なるレギュラーではなかった)プレータイムが不満だったと漏らしたり…。そして、かろうじて記述のあるソラーリの一方、その前任者ロペテギはロの字も出てこない。

私は覚えている。ロペテギが就任当初ローテーションを試み、2018年9月2日のレガネス戦、試合が決まり62分でモドリッチを下げた際、露骨に不満そうな彼の表情を。

この本で語られる蜜月のジダンとの関係が終わったあと、やってきた訳のわからない監督の決断ならばなおさらだ。 この日、モドリッチはUEFA最優秀選手賞、最優秀ミッドフィールダー賞のトロフィーを試合前にベルナベウでお披露目した日でもあった。

本人によれば、彼自身はとても「控えめ」だそうだが、彼は永遠のサッカー少年で、ことサッカーのこととなると頑なに自分を貫くことが多い。

レアル・マドリーからのオファーを知り、電話が来る日に、テニスをして汗まみれのシャツのまま1時間も2時間も待つモドリッチ。「私が電話番をするから、シャワーを浴びてきたら」という妻ヴァーニャさんの声にも耳を貸さない。 「ロス・ブランコスからのオファーをもらって以来、他のことには何も興味を持てなかった」という。

「いつだってプレーしたい」というフレーズは、彼を象徴する印象的な言葉で、この本に幾度も登場する。

13-15年のマドリーのベンチで、彼に全幅を置いたカルロ・アンチェロッティに彼は賛辞を惜しまない。それでも彼が1試合ベンチに置くだけで、「それは不当じゃないかと怒り浸透だった」という。

またそんなサッカーへの頑とした強さの一方で、彼は人の痛みを誰よりも敏感だ。それは彼の幼少時代に感じた「痛み」から来るものなのかもしれない。本人はそれをことさらネガティブに捉えておらず、そう捉えられることも好んでいない。読み手にはそれがいじらしく感じられる。

彼はタイトルを取るたびに、「誰かが喜んでいるということは誰かが悲しんでいること」と述べ、いつも対戦相手を慮る。 同じフィールドに勝者と敗者がいるのは、スポーツの残酷なところだが、モドリッチはそれを忘れずに、その場で喜ぶのをいつも躊躇するのだ。

その優しくも、サッカーに関しては信念を曲げない彼のキャラクターに、少しでも親しみを感じている方であれば、この本は楽しめると思うし、彼をより愛する要素を与えてくれる読書体験になると思う。